*******************************************
熊本は幾度か来ましたが、熊本城は横目で眺めて通り過ぎるだけでした。 今回、タイミングよく訪れることが出来ました。
先月
NHKの番組「歴史秘話ヒストリア」~加藤清正のスーパー築城術 熊本城~という番組をたまたま見ていました。 → この番組をみて、熊本城に興味をいだき、間近でみたくなったのです。
その番組内容の記憶もたどって、 付記したいと思います。
慶長6年(1601年)から慶長12年(1607年)にかけて、
加藤清正が築いたお城です。 城郭は周囲5.3KMにも及んだ城です。
熊本大神宮横の駐車場から 北十八間櫓の前をとおり 不開門入口から入場。
*北十八間櫓, 高さが20Mにも及ぶ石垣です。石垣と櫓(やぐら)に囲まれた路を進む。
*天守閣・本丸の櫓本丸・天守閣への門をくぐり、
本丸の下の石塀に挟まれた通路を通っていきます。
天守閣・本丸のある広場にでます。
*左が大天守閣、 右が小天守閣。外観2層内部4階地下1階で、内部は居住を意識した造りになっており、地下には井戸も掘られ最悪の場合天守のみでの籠城(ろうじょう)も可能な構造。
天守閣の内部は展示館になっていて、 熊本城の歴史、構造にかかわるさまざまな資料、写真 展示物がみれます。 最上階は展望台で熊本市内が一望できます。
城の写真をみて、お気づきになったかもしれませんが、
熊本城の最大の特徴はなんと言ってもこの
石垣です。
優美にして堅牢な石垣は「清正流」と呼ばれ江戸時代から名を馳せていました。
一見優美に見える石垣ですが、実は城の防御ということではまことにしたたかなアイデアがあるのです。
この石垣は他の城の石垣づくりと異なっている。
他の城は石垣の斜度がストレートだが、この熊本城は下が緩やかな傾斜。
一見登りやすいが上に登るにつれほぼ反り返った壁になっている。
上りきれないのである。
城に侵入してきた敵の武者を返してしまうことから、「
武者返し」と呼ばれる形状である。
また、長い年月が経つ事によって石垣が膨らみ、石垣が崩壊するのを防ぐための形状であるようです。
さらに石垣の上がオーバーハングになっている。
天守台から少し張り出す「張出造(はりだしづくり)」。
また、それぞれの櫓には
”石落し” と
”鉄砲(矢)狭間” が設けられていたようです。
櫓の角や塀の途中に設けられた壁面の出っ張りが石落とし。
敵から身を隠しながら鉄砲や矢を放つ小さな窓のことを狭間。
櫓(やぐら)や塀の壁に設けられています。
熊本城の狭間は長方形で長短2種類あり、長いものが矢狭間(やざま)、短いものが鉄砲狭間。
攻める側は一見取り付きやすい石垣で勇んで登るが、登るにつれて垂直な石垣に立ち往生。
そこを石落としの窓を開けて石落とし、 鉄砲、矢で一撃、 一発必中で相手をしとめる。
落下した相手は固い石垣を転がリ落ちて決定的なダメージを受ける。
きわめてサディスチックな、一発必殺の石垣なのである。
天守台と建築物の間には、名古屋城天守と同様に60センチメートル程の
「忍び返し」という鉄串が刺してあり
こうしたしたたかな城づくりがいろんなところに施されているのである。
また、自然の地形を巧みに利用した築城技術・工法が取り入れられています。
大小天守閣をはじめ、櫓(やぐら)49、櫓門18、城門29を数え、
城郭の広さは約98ha(東京ドーム21個分)、周囲約5.3kmにも及んでいました。
敵は本丸・天守閣に到達するまでに、 周りの堀を渡り、 長塀を乗り越え、
さらに迷路のような石垣の間を通り抜けなければならない。
その間にも櫓が何箇所かあり、縦列になった敵方を分断する。
櫓の石垣に取付いても、 武者返しの壁、 上部には 張出があり、 石落し、 狭間もある。
確実にしとめるという、恐るべき したたたかな築城術である。
昔の古典的な戦いでは、よく考え尽くされた堅固な城塞であったのだろう。
熊本城本丸御殿に向かいます。 御殿は畳数1570畳、部屋数53もある建物群。
まづ大御台所から入ります。 巨大な丸太を使った小屋組みで、2つの大きな囲炉裏(いろり)があり、土間には竃(かまど)などもありました。
そして 本丸御殿大広間です。 行政の場、生活空間として利用されたようです。
昭君乃間(しょうくんのま)。 藩主の会見の場。 まことに煌びやか!
本丸御殿の中で最も格式の高い部屋で、慶長期の特色である鉤上段(かぎじょうだん)を設け、室内は床の間や違棚、付書院などを持つ書院造りとなっています。
壁や襖などには中国の前漢の時代の話で、匈奴(現在のモンゴル)に嫁がされた悲劇の美女、王昭君の物語が描かれています。← 熊本城HPより
*「昭君の間」は実は「将軍の間」の隠語であるという説もあります。熊本城を造った加藤清正は豊臣秀吉子飼いの武将。その遺児である秀頼に万が一のときは、清正にはこの熊本城に秀頼を迎え入れ、西国武将を率いて徳川に背く覚悟があり、そのための部屋が「昭君の間」というのです。← 熊本城HPより***日本3名城は、 熊本城、 名古屋城、 姫路城、 大坂城、 江戸城、 松本城 がそれぞれの解釈でノミネートされていますが、 熊本城は どの解釈でも必ず入っている名城です。 個人的見解ですが、 ”標語県”の姫路城もはずせない◎。 残りひとつはやはり尾張名古屋の金の鯱□ですね。
天守閣からの城内、 スッキリと晴れれば阿蘇まで見えるそうです。
熊本城を後にし、空港へ向かいました。
こうして3泊4日間の九州山行の旅は終わりました。
11月4日#58943;
*** 長々とした記事になってしまいましたが、お付き合いいただき大変ありがとうございました。***