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自分の足跡を「ブログ」で書くのはとても難しい、と前の記事で感じました。 憚りながら ありのまま を書いたつもりで、それ以上でもそれ以下でもありません。ひとりのつぶやき程度として「ご笑読」して戴ければ嬉しいです。人それぞれの人生にはそれぞれに意味や価値があると思います。類えるものでもないし、比べるものではないことをお含み戴きたくどうぞお願いいたします。興味・関心のない方はどうぞスキップして戴き、また次の記事でお越し戴ければ幸いです。
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アラブ首長国連邦(UAE)、その中の首長国のひとつがドバイです。 砂漠のなかに超高層ビル群が林立し人工のマリーナリゾート群が造成され、モダンなショッピングモール・アーケードは豪華で煌びやかさにあふれる街。 近年は海外からの富豪や観光客も多く栄華を誇っているかのようです。 映画「ミッションインポッシブル ゴーストプロトコル」の舞台にもなった街ですね。 アブダビといった他の首長国はオイルで潤っていますが、ドバイは石油に依存していないようです。 ドバイの過去の発展を支えてきたのは貿易と金融です。 とくに1990年代までは貿易で急成長しました。
*対岸BUR DUBAI側からのディラ地区198X
ドバイ首長国にはドバイ地区とディラ(DEIRA)地区がクリーク(運河)によって隔てられています。 ディラ地区はクリークや港湾地区を中心に旧市街や昔ながらの卸売り市場やバザールがあります。 ドバイは航空便でも中東のハブですが、昔から数日間ならばビザなしで入国が出来ました。 少なくとも15回ほどは訪問しましたが、滞在先はディラ側のクリーク沿いのホテルが定宿でした。 ホテルには日本食レストランがあり日本からの出張者や駐在員で繁盛していました。 年中真夏ですが他のアラブ諸国と比べてインフラは整備され、比較的治安もよくひとりでも自由に動くことが出来ました。 とはいうもののイスラム国家ですのでお酒の飲める場所は一部のホテルですし、行動や振舞いには節制が求められますので十分注意を払う必要があります。
ドバイをとりまく中東諸国、アフリカ、インドを含む西アジアの途上国は輸入制限が多く、関税も高い、手続きが面倒で正規輸入がし難いというのが実態であったようです。 各国の販売拠点や代理店が直接輸入販売するのが望ましいのですが、前述のような輸入障壁により価格は高くなり供給量も限られてしまいます。 自由貿易港であるドバイが近隣諸国への「再輸出」基地として発展を遂げた背景がここにありました。 1970年代半ばまではレバノンのベイルートが中東のもうひとつの中継貿易港でしたが、内戦で崩壊し機能が消失したこともドバイに追い風でした。
繊維製品やエアコン・冷蔵庫・洗濯機といった生活家電から小型家電、雑貨品にいたるほとんどのコンシューマーグッズや素材・部品がドバイに輸入され、再輸出されていました。 ディラや対岸のドバイ地区(BUR DUBAI)にはTV・ビデオデッキ、CD・ラジカセ、ポータブルオーディオ製品、コードレス電話といった小型家電、カメラ・カムコーダーや時計等の精密機器を取り扱う輸出入業者が集中していました。 彼らはデイラのマーケットに店を構える卸・小売業者に販売。マーケットには湾岸諸国、イラン、インド、エジプト、アフリカ、ロシアからのバイヤーが商品を物色し、大量に買い付けていきました。
*多くの木造船が停泊するディラ側沿いのクリーク198X
マーケットの業者は店内在庫だけでなくフリーゾーンや港湾の倉庫から出庫し、バイヤーの指定する空港倉庫や「運び人」に商品を届けて取引(決済は前払いか即金)は完了ということになります。 売買された商品はデイラのクリークに停泊するボートに積み込まれ対岸のイランや湾岸諸国へ、ホルムズ海峡からインド・パキスタンへ、アラビア海からアフリカ東海岸へ運ばれます。 イラン向けは小型ボート、インド・パキスタン方面へは比較的大型船舶で輸送され、あとは現地の沖合で受け渡しされていたようです。 航空便の場合は「トランジット」(中継地扱い)ということで輸送されますが中継地で貨物が「消失」するというカラクリがあるようです。 我々には想像もし難いシンジケートがあり、「中継貿易」の背後にある闇の部分であったかもしれません。
今世紀に入ってからは環境も変化して「イレギュラー」な取引形態は後退し、取り扱い製品もスマートフォンやパソコン機器といった情報機器が多くなっているようです。 特に大市場であるインド向けは市場開放が進むなかで現地生産や直輸出に変わりつつあるようです。 それでもドバイは中東で最大の物流拠点としての地位を堅持しつつ、今や中東の金融センター、最大のリゾートとなっています。 繁栄を支えたのは「中継貿易」と9割以上の「移民労働者」でもあり、光の裏には様々な影がさしていたといえるでしょう。
メーカーの営業マンとして最大のミッションはより多くの注文をとること、右肩上がりの販売を達成するという飽くなき社命というか使命でした。中東地域を4年ほど担当した後は他の地域に変わりましたが、こんな因果な仕事が7年ほど続きました。 それから米国勤務を挟んで約4年後、似たような仕事ですが、働く場を変える(転職)ことになりました。 再びドバイを訪れた時に、中東の業界では知る人ぞ知る大物商人と出会いました。 定宿の直ぐ裏にあるマンションの1角に小さなオフィスと自宅をひっそりと構えていましたが、傑出した販売力と購買力がありました。 買い付けるボリュームは半端じゃなく桁違いですが、価格交渉はいつも熾烈を極めました。#59122;#59124;#59120; 取引をかさねるにつれて親交も深まり、彼の母国の自宅や、夏は彼の避暑地であるスイスのマウンテンリゾートで会う機会もあり、つき合いは90年代まで続きました。 それ以来もう20年以上の歳月が過ぎ懐かしい想い出です。
*現在のドバイ、GoogleEarthより
最後にドバイを訪問したのは2003年ですが、今のドバイは様変わりしているでしょうね。 プライベートでは縁遠いところですが、寄ってみたいところです・・・・・閉塞感のなかで無慈悲に過ぎ去る時間には;#59123;; なんとか、くたばらないように頑張りたいです。